ミャンマー国は 135の民族で構成されている多民族国家 です。国民の大半は 仏教徒であるビルマ族ですが、ミャ ンマー北部のカチン州や シャン州周辺に暮らすカチン民 族の人口は 約155万人であり、人口の99%は キリスト 教徒で、仏教や精霊信仰は1% 未満となっています。
カチン民族のことを カチン語で「Jinghpaw (ジンポー) Wunpawng( ウンポン)」と呼び、上配置写真のように六つ の部族で構成されています。カチン民族は インド、中国、 ミャンマーに暮らしており、母国語として カチン語が話 されています。カチン州は 翡翠や金の産地として世界に 知られている地域です。
カチン民族への 米国の伝教師による伝道は 1837年から 始まり、当時 Euginia Kincaid というバプテストの宣 教師が、北部ビルマの Mogawng町において、初めてカチ ン人と出会いました。彼は早速、アメリカの宣教団体に 宣教師派遣を要請する手紙を書き、その要請に応える形 で1878年、 Albert J. Lyon 宣教師が北部ビルマに派遣 されました。しかし、 Lyon宣教師が Bhamo町に 到着するや否や、滞在1カ月でマラリヤに罹患して病死しました。
1878 年のLyon宣教師の死は、カチン族宣教への礎となり ました。米国において、カチン族に対する宣教が急務であ るというアピールがなされ、それに応じたのがイリノイ州 で牧師をしていた Willam H.Roberts 宣教師でした。 1879 年に彼は妻と共に Bhamo町に向けて出発し、カレン 族の伝道者と共に、Bhamo町で伝道活動をしました。しか し、当時政情が不安定であったこともあり、伝道は困難を 極めていました。宣教レポートに、強盗、襲撃、宣教師館 の破壊、夫人の病死等当時の困難な様子が赤裸々に綴られ ています。その後、Willam H.Roberts 宣教師は夫人の死 のために、一時帰米を余儀なくされました。その後、1881 年に再婚したWillam H.Roberts 宣教師は夫人と共にカチ ン民族の元へ再び向かいました。この時、新たにカチン族 の宣教師として任命された Kronkhite 夫妻も同行されました。
Willam H.Roberts 宣教師はアメリカの宣教師たちと共に、 カチン族への宣教を行い、1882年3月19日に、7人のカチ ン人が回心し、バプテスマを受けることとなりました。バ プテスマの後に、 Willam H.Roberts 宣教師一家は、 他の アメリカの宣教師や カレン族の伝道者などと共に、初めて 主の晩餐会を 持つことができました。7人のバプテスマの 後、宣教は大きく拡大し、バプテスマを受けるための基準 は高かったのにも関わらず、受洗者が続々と起こされまし た。
カチン族への教育もこの時から始められるようになりまし た。Willam H.Roberts 宣教師一家によって、最初の小学 校が作られ、カチン族の子どもを教育し、生徒たちと一緒 にビルマ語からカチン語へ、マタイによる福音書を翻訳さ れました。1890年12月22日、新たな宣教師 Ola Hanson がBhamo に到着した後、 ローマ字をもとにして、 カチン語 のアルファベットが作られ、これはカチン語で文字を作る 初の試みでした。Ola Hanson宣教師は、更に、11000 語を 収録するカチン語-英語辞書や文法書などを編纂し、讃美 歌と聖書の翻訳、作曲、典礼文作成なども手掛けました。 以来カチン民族はあらゆる面において進歩発展を遂げ続け ています